2017年の「教育機会確保法」以来、無理に学校に戻すのではなく、その子の社会的自立を支援するという方向へ、国の方針も変わってきました。
この変化によって、子どもたちにとって学校以外の学びの場も選択肢として現実味を帯びてきました。フリースクールに通ったり、自宅でオンライン教材を使って学んだり。そうした多様な学びが、在籍する学校で「出席扱い」になるという話もよく耳にします。学校長の判断で、学校外の学びも「出席」とみなされるこの仕組みは、学びの多様化を後押ししているように見えます。
でも、ここで一度立ち止まって考えてみたいのです。そもそも「出席」って何なのでしょうか? そして、その「出席扱い」には、どんな意味があるのでしょうか?
「出席扱いにしてあげる」という不思議な関係性
学校に行っていないのに、学校が「出席扱いにしてあげる」。この言葉を聞いて、少し引っかかりを感じるのは私だけでしょうか。まるで、学校が学びの価値を最終的に判断し、お墨付きを与えるかのような構図です。子どもが自分の意志で、自分に合った場所や方法で真摯に学んでいるとしたら、その価値は本来、学校の「承認」を必要とするものなのでしょうか。
もちろん、出席日数が内申点や進学に影響するという現実的な問題があることは理解しています。だからこそ、親御さんが「出席扱い」を気にするのは当然かもしれません。でも、それはあくまで今の「学校を中心とした仕組み」の中で考えているからですよね。私たちが問い直したいのは、その仕組み自体なのです。
「出席扱い」が強化する学校の権威
「出席扱い」という概念がある限り、私たちは無意識のうちに「子どもの学びは、最終的には学校に認められる必要がある」という考え方に縛られてしまうのではないでしょうか。多様な学びが広がっているように見えても、結局は学校の基準や枠組みの中に回収されてしまう。それは、むしろ学校の権威性を強め、画一的な教育システムを温存することにつながりかねません。
もしかしたら、「出席扱い」という言葉の裏には、「学校が認めない限り、君のやっていることは正式な学びとは見なされないよ。社会の一員として認められないかもしれないよ」という、無言のプレッシャーや脅しのようなものが隠れているのかもしれません。
大切なのは「学びの実質」
本当に大切なのは、子どもが「どこで」学んでいるかではなく、「何を」「どのように」学び、そして「その子自身がどう成長しているか」という実質ではないでしょうか。学校という場所に馴染めなくても、自分らしく輝ける場所で、主体的に学んでいる子どもたちがいます。その学びの価値は、「出席」というハンコ一つで測れるものではありません。
「出席扱い」のない未来を想像してみよう
もし、「出席扱い」という概念がなくなったら、どうなるでしょうか。
それは、学校だけが学びの絶対的な基準ではない、という認識が広まる大きな一歩になるかもしれません。フリースクールも、ホームスクーリングも、その他のオルタナティブな学びも、学校での学びと等しく価値あるものとして尊重される。子どもたちは、もっと自由に、自分に合った学び方を選べるようになるかもしれません。
そして、「不登校」という言葉の持つネガティブな響きも変わっていくのではないでしょうか。学校に行かないことが「問題」なのではなく、多様な学びのスタイルの一つとして自然に受け止められる社会。そんな未来を想像すると、少しワクワクしませんか。
もちろん、すぐに「出席扱い」をなくすのは難しいかもしれません。評価のあり方や、公教育の役割など、考えなければいけないことはたくさんあります。でも、今当たり前だと思っている「出席扱い」という言葉や仕組みに疑問を持ち、その意味を問い直してみること。それが、これからの教育や学校のあり方、そして「不登校」という枠組みそのものを変えていく、大切なきっかけになるのではないでしょうか。
皆さんは、「出席扱い」についてどう思いますか?ぜひ、ご意見を聞かせてください。